2023.10.03
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かつて乳児の先天性股関節脱臼の発生率は高く、治療には整復とギプス固定を要しました。大学病院の整形外科には長蛇の列ができ、赤ちゃんの泣き声が止むことはありませんでした。股関節を固定するために、排尿や排便の管理も大変で、母親はつらい思いをしていました。
1957年、当時のチェコスロバキアの医師パブリックPavlikは、固定という概念とは全く異なる、運動を許可しながら治すという装具治療を発表しました。それは「あぶみバンド(リーメン・ビューゲル)」と呼ばれ、身体と足を革のバンドで繋ぎ、ベルトの長さを調節して股関節を開いた状態を保つという画期的なものでした。これにより治療成績は飛躍的に向上して、手術が必要になる患者も少なくなりました。またその後、日本では赤ちゃんの抱き方の指導や紙おむつの普及によって、疾患そのものも激減していきました。
パブリックは、オロモウツという田園に囲まれた田舎町で治療を開始し、約1400人の子供に装具を装着しました。旧共産圏にあって、情報が極度に制限された中での研究には大変な苦労がありましたが、彼は最後まで自分の理論を追求したのでした。
1962年に59歳で亡くなっていますが、彼の業績はノーベル医学賞に値するものであったと賞賛されています。